企業のプロフィール

  • 名称:くみやま学習塾、英会話教室
    種別:塾(個別指導)、塾(集団指導)、語学スクール
    指導対象:小学生、中学受験、中学生、高校受験、高校生、大学受験、大人
    指導科目:算数、数学、文系数学、理系数学、英語、英会話、理科、社会、倫理、国語、小論文 英語
    住所:京都府久世郡



ハンドルネーム:くみやま学習塾さんのブログ

わからないがわからない②

2022年2月15日 23時17分 (乱文ご勘弁)

 前のブログでは学生のお話をしました。今回は「大人」の話。

 学生指導にあたって承認欲求不満を埋めてあげなければならない。これは多くの人が納得して実行している講師も多いはずです。「大人」の話に入る前にちょっと無駄話をしておくと、この承認のやり方も千差万別です。

 「褒めちぎる」「褒め殺し」という言葉の如く、褒めまくることが正しいと信じて実行している人がいるかもしれませんが、第一に中学生以上となるとそういう大人の小細工をちゃんと認識しています。無論、貶されるよりはましですが。そもそも褒めることは上から下に向かっていくものであって、侮られたくない盛りの学生であれば否定的な場合もあります。褒める≠承認する。承認は、端的に言えば「それでいいよ」ということであって、こちらから何か能動的にうるさく言う必要はないというだけの話になります。

 それに加えて、個人的には「素で感動する」ということがあります。これは手法ではありません(手法になったとたん学生は見破るでしょう)。単に、目の前にいる学生が、ABC・・・のアルファベットさえ書けないんだろうな、という大前提で始めれば(実際にたくさんいました)、自然とappleのスペルができただけでも「おお、すげぇ、できるじゃん君!」となります、ほんとに。その素な感動がどうやら生徒の自己卑下を取り払ってくれているようです。

 さて、大人の話ですが、社会人の場合は学生と違ってどうも僕は「おかまい」ができないようです。

 相手が子供であれば高いはしごをひたすらスタスタと降りてきて、そこ(底)についたら彼らの手を取って過保護にゆっくり一緒に登っていく。その作業を何年とかけてやっていきます。だから辱めもなく「すごいね~」なんて言って素で感動することだってできます。一方相手が社会人、ましてや自分よりも年配の人間であれば、当然僕よりも人生経験が長いわけですから、知性も踏んできた場数も上なはずです。ですからこちらとしても相応に回転数高めで想定して指導します。たとえ生徒が英語に関して無知でも、「学習するということ」に対する認識は学生の遥か上をいくはずですから。

 特にヒエラルキー圧の高い日本社会において、いくら教育の場であって年配の人間に「よくできましたね」と発言することは、受け取りようにもよりますが「無礼」と取られる、ある種の恐怖心がありました。実際、この4年間の英会話の生徒のほとんどは年配の社会人でした。このヒエラルキーほど英会話指導で邪魔になるものはないと嘆きましたが、なんてことはない、毎年自分は歳を取っているわけですから、いつかその問題は消え失せるはずです(笑)

 ただこの考え方(やり方)も、4年やってきた末に「なんだかな~」と思うようになりました。

 何歳であろうが承認欲求は人間である限り絶えない、という点も加味しなければならないからです。ある程度成熟した人間であれば、他者による承認はそこまでなくても自己承認によって補えるという点もあります。自分が満足しているからそれでよし。「大人」がみんながそう思えればいいですが、そう上手くいくわけでもありません。だから学生しかり社会人しかり、「検定」というものに惹かれる理由もわかります。これは公の承認ですから、揺るぎようのない技術的な承認です。私は英検1級持っている。その一言で他者を驚嘆させることだってできます。

 社会人が学生と最も違う点はやはりその動機でしょうか。わざわざ身銭を切って学びに行くわけですから。行かされている学生とは訳が違います。ある人は検定で上級を目指し、ある人は海外旅行でスムーズに会話ができるように、ある人は脳のトレーニングのために、ある人は留学のために、ある人は仕事の業務のために。

 学生でさえ明確に成績向上!受験合格!という目標を持っています。ただこれも本当に個人的かつ勝手に思っていることではありますが、この目的意識はあるよりないほうがいいと思わなくもありません(何度も書きました)。目的とは「先」にあるもので、決して「今」ではありません。知性的営みは、それをやっているその瞬間こそが一番おもしろいのであって、それが「苦」である時点で「なにかおかしい」と僕は判断しています。その苦行を重ねた先に本当に幸福はあるのでしょうか。これは個人的な考えなので必ず反論があります。つまり「楽して何かを手に入れようってのは虫が良すぎる」という類の論です。

 それは「楽」の解釈を「怠けて」と混合しているからかもしれません。「楽しんで」と「怠けて」では天地の差があります。そもそも楽しいことを怠けてすることは不可能です。怠けるのはやりたくないことだからに決まってるからです。じゃあ学校の勉強はどんな方向からみても絶対にやりたくない事かと言えば、それは誤解でしょう。その「おもろさ」を知らないだけで、はたまた「押し付けられた」せいで、はたまた「学校のスピードが速すぎて」わからずにいるだけの話です。

 一度損なわれた興味は「あれは楽しくないことである」という勝手な認識がずっと脳内に居座りますから、中々引きずり出すのに時間が掛かります。食わず嫌いならぬ、食って嫌いなのですから、そこには嫌いであるということに関して大いなる自信があります。だから必然的にその解決方法は「ちゃんとした美味いものを食わす」ということになります。それが前回の結論と一致します。

 できないからやりたくない。できるようになるには無理しなければならない。無理してやることは怠けがちになる。怠けてやればできるようにはならない。できないから・・・、その悪のスパイラルの中に学生はいると思われているかもしれません。だからそのスパイラルを断ち切るには、「無理しなければならない」を「気張らず理解者とゆっくり歩む」に置き換えるしかありません。その「理解者」に身内である親がなろうとすると、実は意外と膨大な量のエネルギーを消費するから外部に委託します。いや、ドメスティックな関係だからこそ超えられない壁を部外者が超えることも少なくないかもしれません。

 この学生に関する考え方が社会人にも適用されるかは、はっきりと試したことが無いのでわかりません。またいずれにせよ全く同じメソッドというわけにもいきません。ただ今現在言えることは、こちらが回転数高めで社会人を指導しても芳しい結果は見込めないという狭い範囲での知見に至っています。それは「我々大人はお互いそれくらいわかっていますよね?」という、僕自身の極めて身勝手な誤認識によって生じたギャップからなるものかもしれません。

 とまあここまで書いてみても、やっぱり教育は終わりのない試行錯誤だなと感じるわけでして。