企業のプロフィール

  • 名称:くみやま学習塾、英会話教室
    種別:塾(個別指導)、塾(集団指導)、語学スクール
    指導対象:小学生、中学受験、中学生、高校受験、高校生、大学受験、大人
    指導科目:算数、数学、文系数学、理系数学、英語、英会話、理科、社会、倫理、国語、小論文 英語
    住所:京都府久世郡



ハンドルネーム:くみやま学習塾さんのブログ

わからないがわからない

2022年2月11日 16時01分(ある生徒の保護者との対話からの着想) 

 子供ほど観察していておもしろいものはない、ということに同意する人は少なくないのではないでしょうか。「子供」と一口に言っても色々ですが、例えば年齢で大きく言えば小学校1年~4年とそれ以上の間には大きなギャップがあります。あくまで大きく言えばなので、今現在指導中の小学校5年生にもなる女子達は、勉強中に終始「う〇こ、う〇こ」と連呼するような子だったりします。

 良い悪いはともかく、小学生のような極端に年齢の離れた子供を目の前にした「大人」は、しばしばその扱い方に大きな違いが見て取れます。ある大学生男子は己が小学生にすっかり成り戻り、同調し、子供たちとコミュニケーションを図ろうとし、ある社会人女性は6年生女子と恋話を皮切りに心を掴もうとします。その最終目標はつまるところ「目の前にあるドリルを如何に集中してやらせ、成績を上げるか」に帰着します。

 僕自身は正直なところ、小学生がかつての自分だったとしても(しかも度を越えた非常識児)、今では殆どその感覚を呼び戻すことができません。いや、かつてあったその幼児性は人間である限りふとした瞬間現れるものですが、少なくともスーツを身にまとって子供に勉学を教えるモードに入ってしまうと、つい「一体どうやったらそこまで集中力を欠けるのか?」と本気で考え込んでしまいます。

 小学生に集中力(勉強に対する)がないのは当たり前のことであって、集中力がある方がおかしいと本気で思っています。だから一部の教育学者は小学生は椅子に縛り付けていないで思いっきり外を駆け回らしておいた方がいいという人もいます。子供がいつ死んでもおかしくない時代ではなくなった以上、彼らは子供であって子供ではなく大人予備軍となり、遊んでないで将来の為にできるだけ多く投資しろ、となるのは当然かもしれません。自由を奪われた子供のフラストレーションが彼らの集中力欠如と結びついていないはずがないと思ったりもします。

 そこまで彼らの集中力欠如の理由を把握してもなお、「どうしてこんなことさえできないんだろう」と思ってしまうのは大人が子供に接するにあたっての宿痾なものかもしれません。どれだけの知性を持ち合わせても、その感覚は打ち消せない(たぶん)。ではなぜ僕が学生を目の前に声を荒げずに、彼らを褒め称え、鼓舞し、否定せずにいられるのか。それは一言、仕事だからです。

 これは以前介護系の仕事を経験したことのある社会人の生徒と話していたことですが、やはり仕事だからこそ大して苦と思わずにできると仰っていました。だから翻って身内の介護は苦になる、と。

 今まで指導した生徒の両親の9割9分は「勉強しなさい」としつこく言うタイプの方々でした。僕が参上している時点でそれは明白です。ただそこで「だから親はもっと見守ってあげなきゃいけないんだよ」という類の論には与できません。そんな簡単ではないからです。人間ってそんなもので、親は子供にはそうなってしまう、必ず。「私は違う」という人がいたらそれは相当な努力の賜物か、本気で子供に関心がないかのいずれかです。前者でさえそれは「言いたい」という欲動自体を否定できるものではありません。つまり言いたいけど必死に言わないだけの話です。大したものです。

 仕事として請け負ってやっと、彼らの承認欲求を十分に満たすことができる。それほどに、「仕事でもないのに身内の人間を承認し続ける」ということは極めて困難です、ほんとに。僕の両親は珍しくも何も言わない人達でしたが、それは承認していたのではなく、あきれ果てていたからです。そんな僕にももうすぐ子供ができますが、どうせ生徒の親と同じことになるでしょう。いつか子供に「お父さんの生徒には優しいのになんで私には厳しいのか」とそう言われるに決まってます。というよりもすでに年下の妻と対峙するたびに「なんでこんなこともできないのか」そう思い、その殆どが口に出ます。だって仕事じゃないんですもん。

 一番説明が下手なのは天才です(勝手な持論)。その理屈は、「なぜこんなことができるのかわからない」からです。天才でなくても、特に意識しなくてもできたことを目の前の人間ができないでいると、本人は無意識に見下したような口出しをしてしまいます。これは小学生の勉強を見ていれば殆ど百発百中です。わからない子がいると自分の勉強をすっ飛ばして、わざわざ教えに行く。お前にわからないことを俺はわかっている、ということをわかれ!それは「親切」とは程遠い「自己顕示欲」です。誰にでもある欲ではありますが、子供と大人の違う点はその事実を自己認識しているか否かだけです。

 わからない子が気分よくわかるようになる、それが最終目標だとすれば、そこにたどり着くにはつまるところ、損なわれた承認欲求を絶えず埋め、分かり易い教え方でじっくり納得させていくことじゃないでしょうか。ただし相手が未成年の学生であればのお話です。社会人の生徒と対峙する際のお話はまた次回にでも。